【ミッドウェー海戦】沈みゆく空母「加賀」を見て、そのとき乗組員は何を思ったか…。
いまから80年前の昭和17(1942)年6月5日、それまで無敵を誇っていた日本海軍は、ミッドウェー海戦で、南雲忠一中将率いる「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の主力空母4隻を撃沈され、開戦以来はじめての大敗を喫した。
圧倒的に優勢な戦力を擁しながら、劣勢のアメリカ艦隊に敗れたこの戦いが、「あの戦争」の一つのターニングポイントになったことに、議論の余地は少ないと思う。この海戦に参加した隊員たちのほとんどはいまやこの世にないが、筆者の27年間におよぶ取材アーカイブから80周年を機にミッドウェー海戦を振り返る。シリーズ第2回は、この戦いに「艦隊の目」ともいえる索敵機の搭乗員として参加した男の回想である。
後編となる本稿では、<【前編】信号文も知らない「無能司令部」に、ミッドウェー敗戦の責任を負わされた「索敵機搭乗員」>に引き続き吉野の生涯を語る。
「運命の五分間」というが…
と題する一節がある。兵装転換が終わった空母の飛行甲板に準備のできた飛行機が並べられ、いよいよ出撃、というときに敵急降下爆撃機の爆弾を受け、「赤城」「加賀」「蒼龍」の3隻の空母が瞬時に被弾した、というものである。
と劇的な表現で記されているが、結論を言えば、これも真っ赤なウソである。
索敵任務を終えた吉野治男一飛曹の九七艦攻が、味方艦隊を水平線上に認める位置まで帰ってきたところ、はるか前方を、小型機が1機また1機、低空を東の方向に飛んでゆくのが見えた。味方機ではない。吉野は胸騒ぎを感じた。
「『加賀』の上空に着いて着艦の発光信号を母艦に送ると、間もなく着艦OKの旗旒(きりゅう)信号があり、着艦しました。7時5分のことです。着艦できたということは、このとき飛行甲板は空だったということです。搭乗員室に入るところの、飛行甲板脇のポケットに仲間の搭乗員が大勢出ていて、口々に、私が着艦する直前に敵雷撃機の攻撃を受けたが、魚雷は全部回避したこと、敵機のほとんどを上空直衛の零戦が撃墜したことなどを話してくれました。
搭乗員室に入って飛行服を脱いでいると、突然、対空戦闘のラッパが鳴り響き、真下にある副砲(「加賀」の両舷側後部には20センチ砲が5門ずつ装備され、それを乗組員は「副砲」と呼んでいた)が、轟音を上げて発射された。敵雷撃機の来襲です。私は、飛行服の下に着ていた白い事業服のまま、あわてて先ほどのポケットに飛び出しました」
「天皇陛下万歳」と叫ぶ艦長の声
対空機銃は懸命に応戦している。すると、機銃指揮官が、指揮棒を上空に向けて、何かを叫んだ。見上げると、敵急降下爆撃機が雲の間から突っ込んでくるところだった。初弾が、艦橋に近い飛行甲板に命中した。ときに7時23分。
艦橋が炎に包まれ、艦長・岡田次作大佐は即死したと伝えられるが、このとき艦橋の近くにいて、危うく難を逃れた艦攻搭乗員・森永隆義(当時飛曹長)は「天皇陛下万歳」と叫ぶ艦長の声を確かに聞いたという。
「信じないならそれで構わない。でも、私の耳には、あのときの艦長の声がいまでも残っています」
「加賀」には4発の爆弾が命中、そのうち1発が艦橋下の搭乗員待機室を直撃して、そこにいた大勢の搭乗員が戦死し、あるいは大火傷を負った。ふたたび吉野の話。
「私は、ポケットの隅にうずくまりました。伏せていたから、2発め以降はどこに命中したかわかりません。格納庫内には、第二次攻撃に備えて燃料を満載した艦攻、艦爆と零戦の一部があり、大火災になりました。さらに艦攻には魚雷が装着され、庫内には信管をつけたまま取り外した800キロ爆弾、さらに艦爆には250キロ爆弾が搭載されていましたから、これらが次々と誘爆を起こした。誘爆の凄まじさは想像を絶するもので、爆発のたびに『加賀』の巨体は大きく揺れるようでした」
「加賀」の被弾から2分後、「赤城」「蒼龍」にも相次いで敵爆撃機の爆弾が命中した。
「運命の五分間」の欺瞞
「蒼龍」偵察機分隊長として、新鋭の十三試艦爆(のちの「彗星」)2機を所管していた大淵珪三大尉(のち少佐。戦後医師となり病院経営)は、筆者のインタビューに、次のように答えている。
「『利根』索敵機の敵発見の報を受け、午前5時半に十三試艦爆二〇一号機を敵艦隊触接のため発艦させた。私は、その次に出る予定でした。すでに、敵の艦上機らしいものが、入れ替わり立ち替わり攻撃に来ていました。飛行長・楠本幾人中佐に、おい分隊長、そろそろ出番だぞ、と言われて、航空図に必要事項を書き込んで、飛行服に着替えようとしたところでバーンとやられたんです。
艦首に第一弾、続いて第二弾が飛行甲板中央に命中しました。私は発着艦指揮所にいましたが、爆風で飛ばされて転倒しました。幸い雨衣をつけていて、露出部分がなかったので負傷はありませんでしたが、雨衣の背中は黒焦げになっていました」
初弾の命中が7時25分。3発の命中弾が艦内の誘爆を呼び、大火災となった。「蒼龍」でも、まさに索敵機が発進しようとしていたのだから、攻撃隊はまだ飛行甲板に並んでいない。
戦後、防衛庁防衛研修所戦史部が著した公刊戦史『戦史叢書43ミッドウェー海戦』(朝雲新聞社・1971年)も、第一航空艦隊の戦闘詳報をもとに、〈この時点で攻撃隊の発艦準備は終了していない。〉とはっきり述べている。
しかし、どれほど例証があっても、『ミッドウェー』で書かれた「運命の五分間」、つまりあと5分あれば、海戦の勝敗は逆転していたかもしれない、という脚色に基づいたストーリーの方がずっとインパクトが強いから、いまだにそれが「定説」のように伝えられているのだ。
鉄塊と化した「加賀」
最初に沈んだのは「蒼龍」である。生存乗組員は午後3時までに、駆逐艦「濱風」「磯風」に移乗を終えたが、4時12分、「蒼龍」は艦首を上げ後部から沈んでいき、8分後、水中で大爆発を起こした。艦長・柳本柳作大佐は、艦と運命をともにした。
「加賀」は、生存者を救助したのち、味方魚雷で処分されることになった。吉野は語る。
「『加賀』は飛行甲板の位置が高いので、とてもそこから海に飛び込む勇気はない。私は外舷を伝って、なんとか上甲板まで下りました。対空機銃のポケットには肉片が飛び散り、焼け焦げた死体がものすごい臭気を放っていた。誘爆はなおも続いています。やがて艦は速力がなくなり、停止しました。
駆逐艦が右舷(みぎげん)100メートルまで近づき、停止して『加賀』乗組員の救助を始めるのが見えた。私は意を決して海に飛び込み、駆逐艦に向かって泳ぎ始めましたが、また敵機が来たのか、駆逐艦は急に動き出し、高速で視界から遠ざかっていったんです。仕方なく、浮いていた木片につかまって漂流し、ふたたび現れた駆逐艦に救助されたのは約2時間後、駆逐艦は『萩風』でした。
夕日の沈む頃、『萩風』は『加賀』に近づきました。『加賀』の、艦首から艦尾にかけての飛行甲板と格納庫は焼け落ちて、ほんの数時間前までの威容はまったくありません。それでも上甲板以下の艦体そのものはしっかりしていて、元は戦艦として建造された面影をとどめていました」
吉野を救助した「萩風」と「舞風」、2隻の駆逐艦が、2本ずつの魚雷を「加賀」に放った。このとき、静止状態の、しかも味方艦を処分するのに、「舞風」の魚雷は命中しなかったという少々お粗末な余談が残っている。午後4時26分、「加賀」沈没。救助された「加賀」乗組員たちは、挙手の礼でこれを見送った。すでに単なる鉄塊と化して沈んでゆく「加賀」の姿に、吉野は涙も出なかったという。
「ちょうど動物が、我が子が死んだらその死骸には目もくれなくなるような、そんな感じだったと思うんですよ。沈んでゆくのを見ても、そのときは何の感情も湧いてこなかったですね」
「俺は不死身だ」
吉野は「萩風」から戦艦「長門」に移され、志布志湾に帰投すると敗戦の事実を隠蔽するため、そのまま鹿屋基地に軟禁された。居住用の兵舎一棟があてがわれたが、ほかの隊員との接触は禁じられ、まさに敗残兵の扱いである。約2週間後、吉野機の3人の搭乗員は揃って空母「翔鶴」に転勤を命ぜられた。昭和17年10月26日、ふたたび日米機動部隊が激突した南太平洋海戦にも、吉野は索敵機の機長として参加している。
さらに昭和19(1944)年10月25日、フィリピン近海で日米が激戦を繰り広げた「比島沖海戦」では、艦上攻撃機「天山」に搭乗、いわゆる「小澤囮艦隊」の旗艦「瑞鶴」から索敵に発進、「瑞鶴」が敵艦上機の波状攻撃を受け撃沈されたために、フィリピンの陸上基地に着陸。そこからレイテ湾内の敵輸送船団攻撃や米軍が橋頭保(きょうとうほ)を築いたタクロバンの夜間爆撃などに出撃を重ねた。
「11月4日午前零時、クラーク基地を単機で出発し、3時42分、緩降下でタクロバンの敵飛行場を爆撃しました。攻撃を終えてレイテ湾内を上昇中、探照灯に捕捉され、同時に高角砲弾が周囲で炸裂し、機体が振動して火薬の臭いが座席に入ってきました。正確な射撃です・これは電探射撃だと直感して、とっさに、用意していた電探紙(金属を貼りつけたテープ)を撒くよう、後席の電信員に指示しました。これが功を奏して、たちまち高角砲弾は後方に遠ざかりました」
吉野はこの頃、同乗する若い搭乗員たちに、「俺は不死身だ 俺と一緒にいる限りは絶対に死ぬことはない」と暗示をかけ、安心感を与えて、いざというときに実力が発揮できるよう、部下の心を掌握することを心がけていた。長い実戦経験に裏付けられているからこそ、その言葉には説得力があった。
その後も吉野はフィリピンで戦い続け、昭和20年2月木更津基地に復帰。本州沖に出没する敵機動部隊の索敵任務に就きつつ終戦を迎えた。当時満25歳、海軍少尉になっていた。昭和20年10月30日、日の丸を米軍の星のマークに塗り替えられた日本海軍の偵察機「彩雲」を木更津から横須賀に空輸して、吉野の搭乗員生活は終わりを告げた。
ミッドウェー海戦で敵艦隊を発見しながら司令部の失策のスケープゴートにされた感のある吉野の同期生、「利根」四号機の甘利洋司一飛曹は、芙蓉部隊の一員として終戦3ヵ月前の昭和20年5月13日、夜間戦闘機型の「彗星」に搭乗し、九州・佐多岬南方海面に出没する敵機動部隊の黎明索敵攻撃に出撃したさい、敵空母発見を打電したまま未帰還となり、戦死している(戦死時少尉)。
「二度も敵発見という最重要情報を打電しながら、報われることのなかった甘利のことを思うといたたまれない。司令部に腹が立って仕方がない。だってそうでしょう、ミッドウェー海戦のとき、もし敵艦隊が私の索敵線上にいたら、敗戦が私のせいにされてしまったところです。運命は紙一重なんですよ」
吉野は戦後、関東配電(のちの東京電力)に入社、空港反対闘争華やかなりし頃の成田営業所長などを歴任、昭和52(1977)年の定年まで勤めた。平成11(1999)年、アメリカの深海調査会社ノースティコスがミッドウェー島東方の海底で、ソナー画像から「加賀」の残骸を発見したさい、吉野は調査への協力要請を受け、同じく九七式艦上攻撃機搭乗員だった赤松勇二とともに探査船に同乗した。
「波が高く、船は大きく揺れました。ミッドウェー島沖とは言っても、周囲は全部海ですから、昔ここで戦った感慨とか、思い出に浸るようなことはなかった。心のなかでは、『加賀』が見世物になるのはしのびない、見つからないで欲しいという気持ちもありました……」
平成23(2011)年死去、享年91。吉野が亡くなって8年後の令和元(2019)10月、米IT大手マイクロソフト共同創業者のポール・アレン氏(2018年死去)が設立した財団の調査チームが、海底に眠る「加賀」「赤城」の艦体を相次いで発見、映像が公開された。「加賀」の映像には、吉野が発射の轟音を聞いたという舷側後方に設けられた特徴的な20センチ砲がはっきりと映し出されている。吉野が存命だったなら、海底の「加賀」を見て何を思っただろうか。