昭和16年12月5日「甲板上にて撮影をなす」真珠湾攻撃時加賀艦攻隊集合写真
Source: https://papamama.asablo.jp/blog/2025/12/05/9821855
真珠湾攻撃を目前に加賀飛行甲板で撮られた艦攻隊搭乗員の集合写真。
もう一枚、牧秀雄大尉分隊の集合写真があるはずなのですが、わたしはお目にかかったことがありません。
以前からこれらの集合写真に関してはブログでたびたび話題にしており、特に飛行甲板中央部の風向標識に関する投稿はぜひぜひ読んでいただきたい記事です。
そこでもちょっと触れているのですが、今日はこれらの写真の撮影日に関して。
『ちなみにこの加賀艦攻隊総員集合写真、書籍には12月7日、真珠湾攻撃の前日に撮影されたもの、という説明があるものがありますが、2021年12月に放送された「真珠湾80年 生きて 愛して、そして」という番組の中で紹介された加賀艦攻操縦員の北原收三さん(操50)の日記に12月5日に「記念写真を撮る」の記載が(ご遺族ご提供、Оさんご協力)。
北原さんは真珠湾攻撃で戦死されているので、日記は当日か遅くとも7日までには書かれていたもので、そういう意味では大変資料的価値が高い記述ではないかと思います。
北原日記の12月5日にはもう一つ注目の記述があって、
「一昨日来の暴風雨静まれども終日曇天小雨模様なり」
これなんですけどね。
総員集合写真を見ると飛行甲板のところどころに水たまりがあるように見えます。前日まで荒れていたらしいので波をかぶった可能性も無きにしも非ずですが、写真の様子からも晴天には見えません。天気の面からも「5日」で矛盾ないように思います。
ちょっと余談ですが、乙9期の島田清守さん(蒼龍艦攻隊)の日記によると12月5日は、
「次第ニ南下スル。昨日迄ノ荒天モ静マリト平常通リ「総員体操用意」ノ號令モカカル。飛行甲板ニ出ルト部隊ハ厳然ト進ム。各艦飛行甲板ニペラノ(不明。部員?)ガ有ル様ダ。攻撃ヲ前ニシテ、昨日、一昨日ト飛行甲板ノ作業モ出来ズ今日カラ一斉ニ初(始)マル。 飛行機ノ試運転ダ。」※( )はわたし注記
蒼龍ではこんな具合です。
蒼龍から見たら他艦も飛行甲板に飛行機を上げて試運転をしていたらしいので、きっと加賀も飛行機を飛行甲板に上げていたのでしょう。そのときに記念撮影もやった、ということだろうと思います。
というわけで、今回の話に直接関係はないですが、わたしはこの写真に関しては「12月5日撮影」説をとろうと思います。
余談の余談ですが、7日も加賀も蒼龍も飛行機を飛行甲板に上げています(北原日記、島田日記)。
お天気情報は北原日記「今日は暫く振りの晴天」。島田日記にはお天気情報なし。
と、ここまで書いてからの追記。
2023年9月に町元善春さんの遺品を見せていただいたのですが、同じ総員集合写真がありました。
どなたが書かれたのかわかりませんが裏に手書きで「昭和十六年十二月七日撮 布哇攻撃前日 加賀艦攻隊総員」と書かれていました。
「やはり7日なのか?」
正直、揺れています。
北原さんが日記に書いている5日に撮影した「記念写真」はこの集合写真のことではないのか?
この件は、何か新しいものが出てこないと決着がつかないと思っています。
甲飛4期の真珠湾戦没者のふる里を訪ねたときのことを随想風に著した本です。
それぞれが育った土地の様子や、両親との面会の様子、本人の幼少期の話など、貴重な内容がたくさん。
この大戸喜一郎という人、本の奥付の横にあった著者紹介によると、
早大英文科中退、少年作家として著書あり。海軍省年兵に就いて研究すること既に七年におよぶ。
ネットで検索してみました。1897年生まれ、1961年没らしいです。
著書の画像がいくつか出てきました。『日本海大海戦』『前世界探検』『炭焼キ爺サン』
奥付によると発行は昭和19年9月20日、発行所は輝文堂書房。
『若鷲のふる里』の中に、長井さんの真珠湾攻撃時の日記の記述があったのです。
その中に、「甲板上にて撮影をなす」と書いている日がありました。
大戸さんが取材し活字化されたもので、日記現物の画像が掲載されているわけではありません。しかも伏字が多いです。日付も伏字、地名も伏字。
長井さんが「甲板上にて撮影をなす」と書いている日も「○○月○日」になっています。
なので、北原さん日記と照合して日付を入れてみました。共通して特定の行事を書いてくれていると日付が特定しやすいです。
その結果、日付的には『若鷲のふる里』に引用されている長井さんの日記は、11月19日~12月5日までと判断しました。
途中、11月23日と24日は抜けています。11月23日・24日というのは単冠湾に停泊している期間です。長井さんが書いていなかったのか、大戸さんが敢えて本に転載しなかったのか、そこはわかりません。
が、現時点で見ることはできないので、『若鷲のふる里』に転記されているものを信じて、ちょっと考えてみたいと思います。
○○月○○日 段々と暖かくなったような気がする。四日も島も見えず寂しさ一人身に沁む。(以下略)
○○月○日 遂に○○となる。思ひを故国の上に走らす。(以下略)
これ、たぶん日付は伏せてあるけれど、内容から察するに、日付順にきちんと並べられているだろうと思いました。
そこで、同じ加賀艦攻隊だった北原修三さんの日記の記述と見比べながら日付を検討してみました。北原さんの日記は日付がきちんと入っていますし、ほぼ伏字なしです。下表で●になっているところはわたしが読めなかった字です。
日記に書いている日課を比較検討したら、長井さんの日記はこんな感じで日付が入りました(単冠湾を出港した11月26日~12月7日分)。
よく見たら、大戸さんは日付を伏せているけれど、「十一月三十日」は「○○月○○日」、「十二月一日」は「○○月○日」と伏せた文字数と○の数を合わせていました。ありがとうございます。
とまあ、こんなわけで、長井さんが「甲板上にて撮影をなす」と書いている日は12月5日で間違いないです。
北原さんが書いている12月5日の日記の内容とかなり一致しています。
加賀艦攻隊の長井さんと北原さん、蒼龍艦攻隊の島田清守さんの日記に書かれていた天候に関する記述です。
さらに参考までに、戦史叢書に掲載されていた第8戦隊司令部首席参謀藤田菊一中佐(機動部隊に同伴)の日誌とやらからのお天気情報も併記しました。
これらを見ると12月2日夜ぐらいから荒れ始め、3日、4日は猛烈に荒れていたことがわかります。
3日には加賀で作業中の下士官が海に転落する事故が起きています。長井さんは落ちたのは「下士官一名兵一名」「助けられしとか聞く」と書いていますが、北原さんは「四分隊先任下士官山本一曹」が波に飲まれたとしか書いていません。実際、何人落ちたのか、その後どうなったのか、これに関して調べようとしたのですが、詳細が書かれたものが見つかりませんでした。
ただし晴天には戻らず、「風次第に弱くなり、海上平穏となる。雨尚降る」(長井日記)、「一昨日来の暴風雨静まれども終日曇天小雨模様なり」(北原日記)。
この状態で各艦飛行機を甲板に上げ作業をしたようです。それは島田さんの日記にも描かれています。
「次第ニ南下スル。昨日迄ノ荒天モ静マリト平常通リ「総員体操用意」ノ號令モカカル。飛行甲板ニ出ルト部隊ハ厳然ト進ム。各艦飛行甲板ニペラノ(不明。部員?)ガ有ル様ダ。攻撃ヲ前ニシテ、昨日、一昨日ト飛行甲板ノ作業モ出来ズ今日カラ一斉ニ初(始)マル。 飛行機ノ試運転ダ。」※( )はわたし注記
どう見ても晴天下の撮影ではないし、飛行甲板には水たまりが残っているように見えます。
分隊集合写真も装備などから同じ日ほぼ時間をおかずに撮られたものと判断しています。いずれの写真も同じ状態です。
藤田参謀がこの日「視界不良」と書いているんですが、加賀艦攻隊の総員集合写真も最前列の人たち(北原さんとか)と最後列の人たち(長井さんとか)の明瞭度を比べると、後列になるほど明らかにもやっている感じがあります。
戦後に書かれた手記なんですが、金沢秀利さん(乙8、飛龍)は7日の天気を「快晴、視界良好」と書いています(『空母雷撃隊』光人社NF文庫)。
一日中天気がよかったのか、それとも基本晴天で時々曇ってその隙に写真撮影されたのか、いやー、そこがわからないんですよね💦